武道家でドラマーの親、息子は和太鼓奏者。 親は息子がその道へ行くとは思っていなかった。そんなすれ違いは当たり前

言葉が分からない 一輝

父も書いていましたが、小学校の入学式で衝撃的な事件が起きました。

 

言葉が分からないんです!

 

方言です。

 

本当に分からないんです。

 

先生の言葉も、同級生の言葉も…。

 

すごく覚えているのは、入学式が終わって保護者と共に教室に行き、先生が1人ずつ名前を呼び、はい!と言って立ってから僕は元気です、みたいな事を言えと。

これを毎朝やるから、いま練習しよーねって。

今思い出すと多分そんな感じ。

でもその時は、本当に先生の話す言葉が分からず、わからないまま、1人ずつ立って名前と何か言ってるんです。

 

で、僕の番が来ました。

 

「日野一輝くん!」

 

シーン

 

 

えーと?何をするん?

後ろに立ってる父を見ました。

 

「えーから立ったらええねん」

 

どうやら父も先生が何を言っているのか分からないみたいでした(笑)

 

それからはおうむ返しです。

 

「はい」

「はい」

 

「僕は元気です」

「僕は元気です」

 

みたいな!

 

幼稚園の友達と話していた言葉と違う。

先生の言葉も全然違う。

 

衝撃的な小学生の入学式でした。

村の小さな小学校、それは私の思い込みだった 晃

山の小さな小学校。

そんな勝手なイメージを抱いた熊野行きだったが、それは無残にも打ち砕かれた。

勝手な思い込みだったという事だ。

 

その村は、当たり前だが大阪と比べたら、何もかもが30年は遅れているという感じがした。

それ自身が不思議だった。

 

というのも、テレビは大阪と同じチャンネル数だし、衛星放送も映る。色々な意味で、情報は同じだったからだ。

今でこそ、Aコープには、そこそこものが揃っているが、当時は本当に何もなかった。

だから、買い物は1時間以上かけて田辺の街まで出なければいけなかった。

 

小学校の音楽ときたら、ええっというくらいダサい。

私の幼稚園の頃と同じくらいだったのではないかと思った程だ。

 

一輝は、色々な事情があり私の母、一輝のお婆ちゃんが面倒を見ていた。

幼稚園は芸術教育に力を入れており、子供達は驚く程能力を発揮していた。

一輝は、絵が上手だったが、学校での時間が長くなる程、下手になっていった。

感覚が削がれていったという感じだ。

教育格差というものがある、ということを実感した時期だ。

音楽が嫌いになった理由…その2 一輝

僕が幼少の頃通っていた幼稚園は、東大阪にある菊水音楽幼稚園というところ。

 

そのころは祖母の家に住んでいて、そこから祖母と一緒に通ったり友達と通っていました。

 

その時は当たり前ですが、何も分からず通っていましたが、今思うと大層お金がかかっていた幼稚園に通っていたなと…。

 

だって、ギターやバイオリン、太鼓やピアニカなど様々な楽器をやってたんです!

 

また音楽会では、物凄く大きなホールを借りてギターを30人くらいで弾いたり、ピアニカを50人くらいで吹いたり…

羨ましかったのは、その中でも特に上手い子はドラムパートに回って、バンバン叩いているのを見たとき。

みんな5歳ですよ(笑)

 

先生も凄い。

ビッグバンドさながらの編成で、みんなサックスやトランペットを吹いて、普段見たことのない先生の姿に友達と盛り上がったのを覚えてます。

 

そんな幼稚園を過ごしたから、小学校の音楽の時間は楽しみだったんです。

「バイオリンやギターやったし、小学校ではドラムかなあ?トランペットもカッコいいなあ」

って、本気で思ってました。

 

ところが…

 

なんかみんなで歌うとかしかやらないんです。

しかも何故か全部知ってるし。

 

「あれ?楽器は?」

「トランペットじゃなくてもバイオリンとかやらんの?」

 

そしたらなんと、カスタネットを配られたんです!

これは衝撃的でした。

 

「え?これ幼稚園でやったで?」

 

リズムも、タン、うん、タン、うん…とか。

 

「なんやこれーーー!」

 

本当にめっちゃめっちゃショックなのを覚えてます。

 

ここから音楽嫌いがスタートしたのかもしれません(笑)

 

 

僕は音楽が嫌いだった 一輝

幼稚園に行っていたかいなかった時か、大阪のとあるマンションの13階に住んでいた。

 

父は、たまに家にいた。

で、ドラムを叩いていた。

・・・なんかうるさい。

タオルや毛布をかけて防音対策をしていたと思うけど、それでもうるさかった。

 

小学校は田舎の小学校で、田舎だから住んでる場所も山奥。

ドラムももちろん置いてあり、お弟子さんたちと、ワイワイ言いながら父はドラムを叩いていた。

・・・うるさい。

 

クリスマスには、父やお弟子さん総出でパーティー。

みんなで歌を歌ったり、何か持って叩いたりしてどんちゃん騒ぎだったが、僕はハッキリ言って嫌いだった。

歌も嫌い、鳴らすのも嫌い。

どうやって合わせるのかとか分からない。

父やお弟子さんたちが大声でビートルズを歌っている。

もちろん当時は知らない。

普通に歌っても聞こえるのに、マイク持ってスピーカーから大音量で流す(笑)

・・・うるさい。

 

朝は、クラッシック音楽が流れていた。

こう言うと優雅だが、僕は全く関心なし。

 

とにかく、音楽が嫌いだった。

音符なんて分からない。

何が「ド」とか分からない。

リズムなんて、さっぱり。

 

ある日車の中で音楽が流れてきた。

父が「一輝、これ何拍子や?」って。

 

知るかーーーーーーーー!!

 

って言いたいけど怖いから「えーと、7?」と適当に答えたのを覚えている。

 

幼稚園の時、運動会で小太鼓を叩いた。

でも誰よりも覚えが悪く、誰よりも下手くそで、先生にいつも注意されていたのを鮮明に覚えている。

分からないから。

 

 

そんなこんなで、圧倒的に音楽が嫌いだった僕が、今は和太鼓で生きているというから、人生どこでどうなるか分からない。

 

うるさいと感じていた父のドラムは、和太鼓をやり始めてからその音の存在感を感じれるようになってきた。

 

その父に、挑みます!

 

 

 

 

■日時:4月12日(金)19:00開演

■会場:大丸心斎橋劇場

大阪市中央区心斎橋筋1-7-1 
大丸心斎橋店北館14階

地下鉄・御堂筋線「心斎橋駅」より地下道直結

■料金:全席自由・
開演1時間前から入場整理券を配布します

前売 6.000円 / 当日 7.000円
   
高校生以下 
前売 3.000円 / 当日 4.000円

※未就学児のお子様は保護者の膝の上に限り無料です。
(大人1人につき子供1人)

■チケット取り扱い■
販売は1月11日より開始
 
・チケットぴあ 0570-02-9999 Pコード 137370
 
・申し込みサイト
(カード決済・コンビニ・銀行振込対応)
 https://real71.thebase.in

・日野武道研究所専用チケットフォーム
 PC及びスマホ https://ssl.formman.com/t/wOJl/
 携帯 https://ssl.formman.com/t/i/wOJl/
 
・電話申し込み 050-7120-9353
(9:00〜21:00受付)
※不在の場合は留守電に伝言をお願いします。折り返しいたします。

【日野晃古希ドラムソロコンサート Real '71】
案内ページ https://hinobudo.wixsite.com/mysite
https://www.facebook.com/koki.drumsolo/
https://www.facebook.com/events/246656009340935/?ti=cl

 

 

 

 

 

 

ソニーの新製品の宣伝で

ひょんなところで一輝の写真を見つけた。
ソニーの新しく発売されたデジタルスチルカメラRX0(DSC-RX0)の宣伝動画を見ていた。
 
「えっ、今の一輝?何で一輝の写真が?」
 
そう言えば、一輝が和太鼓を音源にするという仕事をしたと言っていたのを思い出した。
その中での宣伝スチルが使われていたのかも知れない。
 
何れにしても、ソニーの宣伝動画に出ているのだから、多くの人の目に触れる。
それって宣伝にならないか?
 
1分08秒辺りに一輝が流れています。

 

熊野での第一歩は息子にとって最悪だった 晃

息子を連れて熊野の山の中の小さな村に移り住んだ。

その目的は、一つには私自身の武道の稽古場を作る為、そして一つに、息子を山の中の小さな村で育てるのが、いろいろな意味で良いと判断したからだ。

しかし、それはあくまでも私の理想としての山の中の生活であって、現実はそんなに甘くはなかった。

息子は方言でつまずいた。

先生が方言で話すから、一輝には外国の言葉に聞こえていたのだろうと思う。

それは、私達大人にも全く分からない言葉並ぶ事があったからだ。

そんな中での生活は、相当堪えたことだろうと思う。

 

一輝の小学1年生の頃からの子守唄は、ジョン・コルトレーンやマイルス・デェイビスだ。

しかも枕元で流れている。

時には、日本の戦後ジャズ創世記を支えたベーシスト、吉沢元春さんとのセッションが夜中まで続くことがあった。

吉沢さんとは、私が現役時代に何度が演奏をしたことがあり、その縁でしばらく熊野で生活を共にしていたからだ。

 

そんな音楽が溢れた環境で育っていったのだ。

その前に崖から転落していた・晃

一輝が小学1年生の時に、一寸大変な事件が2度あった。

 

最初は、まだ雪が山に残る頃だ。

当時は、雪も相当ふり一寸したスキーが出来る程だった。

だから、雪で家から道路に出られなくて、学校を休む事もあった。

 

そんな時期に、弟子達と道場の横の20m程の崖を降りている時だ。

私が真っ先に降りながら、降りられそうな経路を確保していた。

続いて弟子や一輝が降りてくる。

 

私が大分下まで降りていると上から「危ない!」と声がした。

何と、一輝が頭から落ちて来ていたのだ。

私は思わず身体をうつ伏せから仰向けに反転させ、一輝を受け取り片手で抱き抱え、もう片方の手で、それこそ手当たり次第にその辺りを掴んだ。

いや、掴めるものを掴んでブレーキを掛けた。

てはズルズルだ。

 

一輝の落ちてくる勢いで、私共々落ちていっているからだ。

瞬間下を覗くと、大きな岩が見えた。

もしそこに突っ込んだら一たまりもない。

良くて親子で骨折だ。

 

必死で草や木を掴み土を擦り、奇跡的にその岩の手前で止まった。

崖の上から安堵の声が聞こえた。

間髪を容れず私は崖の上に向かって「笑え!!」と怒鳴った。

一輝にも笑って見せた。

一輝は泣きながらも、こちらに釣られて笑顔になった。

 

もう一つの事件は、息子の書いた、無免許崖から転落事件だ。

「笑う」という大事さは、恐怖心やいわゆるトラウマにならないようにする配慮だ。

ここの意識の切り替えが大変大事な事なのだ。

言って聞かせるのではなく、本当にそうする。

それが直球で届くのだ。