武道家でドラマーの親、息子は和太鼓奏者。 親は息子がその道へ行くとは思っていなかった。そんなすれ違いは当たり前

まずは+1から 晃

熊野に行き、最初の壁は言葉だった。

息子は小学校で教師が話す言葉も、同級生の話す言葉も分からなかった。

そこが原因で、算数が出来ない。

 

もちろん、私たち大人も村の人と会うと挨拶をする。

「こんにちは」は分かるが、そこから雑談になると「?????」でそれこそ、ニタニタしているだけだったから、子供に分かる筈もなかったのだ。

 

その事が分かった時、どうしようか?と考えた。

多分、私は大阪の小学校だから、言葉での壁はなかったから、少しくらいは分かっていたのだと思う。

それと小学3年生(多分)辺りで、近所の珠算教室に通ったから、一応は出来ていたと思う。

 

そこで、まずは計算だろうという事で足し算を考えた。

大人達がよって集って教えるのだが、今から考えると単なる押し付けだっただろうし、子供には理解出来ない言葉を使っていたのだろうと思う。

 

そこで、私は+1から始めようと思い付き、模造紙一杯に+1の問題を書いた。

毎日、毎日、そんな問題を書いて息子にやらせていた。

それを続けていると、ある時今は義弟になる男性が「日野さんのやっている事は、公文式という方法で、それの教室はきっと田辺市にありますよ」と教えてくれたのだ。

「へ〜この方法は確立されていたんか」と知り、早速田辺で探すと1軒あった。

 

そこを訪ね、問題を見せてもらうと、全く同じ考え方だと分かり安心した。

「これなら行ける」だ。

ただ、山奥だから通うのは無理という事で、1週間に1回教室に顔を出し、問題集を貰って家でやることにした。

 

当初は一日一冊くらいだったと思うが、見ていたらまどろっこしいので、どんどん増えていき10冊になった。

1000問をやるのだが、それを添削するのが大人の日課でもあった。

息子も大人も公文が中心の生活になっていた。

 

10冊をやる頃になると、そのスピードたるや物凄い。

大人が「え、何でそんな早いのか」と不思議に思っていたくらいだ。

ただ、字は汚くなった。早く終わらせようとしているので、殆ど殴り書きだ。

でも、計算が出来るようになる事が目的だったので、ま、ええかだった。