武道家でドラマーの親、息子は和太鼓奏者。 親は息子がその道へ行くとは思っていなかった。そんなすれ違いは当たり前

ごんぎつねは 晃

国語か。

息子が読解力不足だと気付いたのは、小学4年生の頃だった。

 

忘れもしない「ごんぎつね」。

この本を読んで、そこに書かれてある問題を解いた。

しかも、大人総出でだ。

問題を読みようによっては、相当難しい問題だ。

それくらい曖昧な言葉が並んでいたのだ。

当然、小学4年生には難しいと感じた。

 

しかし、これをやっていて気付いたのは、大人の読解力不足だった。

だから、全員で小学4年生の国語に取り組んだ。

埒が明かないので、単純な問題を作った。

 

空から風船が落ちてきます、空から風船も落ちてきます、空から風船が落ちてきました。

というような問題を絵を書いて、見ている人の視線はどこ?文章から何が分かるか、そんな勉強をしたものだ。

夕食を終えると、国語の時間になるのだ。

 

私が仕事に出て、その出先からも電話で息子に問題を出していたのを思い出す。

新宿歌舞伎町の公衆電話は、ホステスの姉ちゃんや、その筋のおっちゃん達が使っている。

そこに私が「ごんぎつねは、どうしたこうした」と受話器に向かって話していたこともあった。

その筋のおっちゃんが、奇妙な顔をして私を見るから、よく目があった。

さらに国語も出来なかった 一輝

〇〇はみた

あそこから

あちらへ

このように

 

 

僕は国語も苦手でした。

上記の言葉など出てくると、「誰が言うているのか、何処から言うているのか」など、分からなかったんです。

 

国語のテストでは、上段に長い文があり下段に問いがある形式。

読んでも理解出来ない(笑)

だから、問いも何を言っているのか分からない。

 

そこで再び父やお弟子さんの登場です。

僕の国語の教科書を出してきて、その中にある作品?をみんなで読み、そして問題を作り答えるという作業を、大人に混じってやらされました。

 

ただ答えるだけでなく、理由もいります。

なぜそう思ったのか、どの文からそれが言えるのか、などなど。

更にスケッチブックにどんな状況なのかを描写する。

 

ここまでやってもらえて、初めて何となく理解した様な気がしました。

 

でも、やっぱり授業やテストは全然ダメ。

 

この国語対策はその後どうなったのかは、全く覚えてなくて、父に書いてもらいましょう。

まずは+1から 晃

熊野に行き、最初の壁は言葉だった。

息子は小学校で教師が話す言葉も、同級生の話す言葉も分からなかった。

そこが原因で、算数が出来ない。

 

もちろん、私たち大人も村の人と会うと挨拶をする。

「こんにちは」は分かるが、そこから雑談になると「?????」でそれこそ、ニタニタしているだけだったから、子供に分かる筈もなかったのだ。

 

その事が分かった時、どうしようか?と考えた。

多分、私は大阪の小学校だから、言葉での壁はなかったから、少しくらいは分かっていたのだと思う。

それと小学3年生(多分)辺りで、近所の珠算教室に通ったから、一応は出来ていたと思う。

 

そこで、まずは計算だろうという事で足し算を考えた。

大人達がよって集って教えるのだが、今から考えると単なる押し付けだっただろうし、子供には理解出来ない言葉を使っていたのだろうと思う。

 

そこで、私は+1から始めようと思い付き、模造紙一杯に+1の問題を書いた。

毎日、毎日、そんな問題を書いて息子にやらせていた。

それを続けていると、ある時今は義弟になる男性が「日野さんのやっている事は、公文式という方法で、それの教室はきっと田辺市にありますよ」と教えてくれたのだ。

「へ〜この方法は確立されていたんか」と知り、早速田辺で探すと1軒あった。

 

そこを訪ね、問題を見せてもらうと、全く同じ考え方だと分かり安心した。

「これなら行ける」だ。

ただ、山奥だから通うのは無理という事で、1週間に1回教室に顔を出し、問題集を貰って家でやることにした。

 

当初は一日一冊くらいだったと思うが、見ていたらまどろっこしいので、どんどん増えていき10冊になった。

1000問をやるのだが、それを添削するのが大人の日課でもあった。

息子も大人も公文が中心の生活になっていた。

 

10冊をやる頃になると、そのスピードたるや物凄い。

大人が「え、何でそんな早いのか」と不思議に思っていたくらいだ。

ただ、字は汚くなった。早く終わらせようとしているので、殆ど殴り書きだ。

でも、計算が出来るようになる事が目的だったので、ま、ええかだった。

算数が出来なかった 一輝

小学生の頃、僕は算数が苦手でした。

というより、出来なかったんです。

 

ちょっと記憶が曖昧ですが、足し算は出来たのかな?

でも引き算はサッパリ。

 

父やお弟子さんに教えられても、サッパリ分かりませんでした。

 

業を煮やしたのか、そこで登場したのが「公文式」

 

1ページ10問あり、それが10ページで100問。

これで1冊とカウントして、毎日それをなんと10冊もやらされました!

 

10冊ですよ?

1000問です(笑)

 

しかも毎日ですよ?

1000問を!!

 

学校から帰ってきて、なんやらかんやらして、恐怖の公文の時間、というのが日課でした。

 

もうね、苦痛でしたね(笑)

終わらないから。

 

さらに

終わるまで、夕飯無しです!

今なら大問題ですよね(笑)

でも僕だけではありません。父やお弟子さんも付き合ってくれました。

僕が終わるまで、大人も全員夕飯食べれないという…もうやるしかない状態!

 

時には泣きながらやりました。

終わるまで遊べないし…。

 

あ!そういえば当時僕はファミコンを持ってました。

でも、家では極力ゲーム禁止だったんです。

理由は知りませんが、とにかく極力禁止です。

 

しかしやりたい!

 

そこで交換条件をするという手段に出ました。

例えば「5冊やったら5分〜10分ゲームをやらして欲しい」みたいな。

 

交渉成立すると、もう無我夢中で問題を解きまくり、終わると稲妻の速さの如くゲームをセット(その時間もカウントされるから)し、全神経を目と指に集中させ、ゲームを進めます。

しかし、当時はバックアップの機能なんてありません。

いつも最初からです(笑)

一向に次に進めない(笑)

いつまでたっても、同じとこ。

だから、いかに同じ面を早くクリアするか、というのを学校の帰り道に頭の中で何度もシュミレーションしてました。

だって、先に進みたいから!

 

 

「はい、終わり!」

この声がかかると、絶対終わりです。

なぜなら、「もうすこしー」とか言うと、自分から言うた約束を破ることになり、次からゲームが出来なくなるからです。(何度か怒られたから…)

 

こんな小学生を送ってました。

 

すると、後から聞いた話ですが1日10冊ペースで進むのは住んでた市では1番量も多いし1番進むスピードが速かったみたいです。

 

そのおかげで、小学4年ごろには中学1年の問題を、5年ごろには中学3年の問題を解いてました。

 

でも、本当に嫌だった。

だから、辞めました。辞めさせてもらいました。

 

 

 

 

あー、あの地獄は思い出すだけで吐き気がする(笑)

 

 

 

のんびり打ち上げをしているが 晃

一輝がアップしていた写真は、確か近所の大学の学園祭に出演し、その打ち上げを淀川の河川敷であった時だ。

テナー、ピアノ、ドラムという編成だった。

この時のトリオは、阪急沿線の茨木駅の近くにあったジャズバーでの演奏で、パトカーを出動させた事がある。

 

演奏が始まり、しばらくしたら入り口の方が何や騒がしい感じがして、そちらを見た。

店は細長く、その一番奥が小さなステージで、奥にドラムをセットしていた。

入り口を見ると、警官が数人何やらマスターに話しているのが見えた。

演奏には支障はなかったので、こちらはガンガン演奏を続けた。

終わってから、マスターに「警官は何しに来たんや」と言うと「近所から音量の苦情が何度も入ったから」という事らしかった。

 

確か住宅街にあるジャズバーだったから、仕方のない事だ。

そこらにあるジャズのチンタラ演奏はしないから、騒音に聞こえたのだろう。

当時は、防音対策というようなものも、殆ど施されていなかったのではないかと思う。

のどかな時代だった。

 

しかし、この時期、私は借金を多額に抱え(カレー屋の倒産)四苦八苦していた。

この最悪の時期はまた面白い時期でもあった。

ちょっと遡ります 一輝

父が小さい時の僕の写真をアップしてたので、ちょっと探してみました。

 

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この時の記憶が微かにあり聞いたところ、僕が3つか4つの時で、場所は淀川の河川敷。

父のコンサートの終わった後の1ショットとの事でした。

他にも父の友人?が沢山写っていて、父か誰かに肩車してもらったのを覚えてます。

 

この頃からドラムを聞いていたので、身体に知らず知らずのうちに浸透していたのでしょうか。

 

スティックが遊び道具だったと父は書いてましたが、たしかに家にはスティックが転がっていたので、それを持ったり同じ柄(スティックには名前やメーカーが刻印されてます)を探したりしてました。

 

僕が3つとしたら父は32か33歳。

その時既にコンサートやりまくっていた父。

 

いやー、負けてるな!

 

あかんわ。

もっとやらんと、あかんわ!!

 

 

 

 

和太鼓を叩いても不思議ではないかも? 晃

一輝が1歳か2歳にならない頃、サンケイホールだったか毎日ホールだったか、どこの会場だったか忘れたけど、とにかくそこで若手の舞踏家とデュオをした。

その時、試しに和太鼓を一台ドラムの横にセットして使ってみた。

会場は超満員だった。

一輝も母親に抱かれて見に来ていた。

パフォーマンスが始まり、しばらくすると泣き声が聞こえた。

一輝の泣き声だ。

その声をかき消すように、ドラムを叩きまくった。

そうすると、泣き声は聞こえなくなった。

後で聞くとよく寝ていたそうだ。

多分、それが私の演奏に一輝が初めて接した時だった。

 

そんな事を思い出せば、一輝が和太鼓の道に進んでも、別段不思議ではなかったのかなと思う。

その時、和太鼓を初めて使ってみたが、傑作な事があった。

ドラムから和太鼓に移り、叩き始めてしばらくして、思い切り叩いてやろうとバチを太鼓に当てた瞬間、おでこに強烈な痛みがあった。

「何や!!??」バチが折れて、私のおでこに跳ね返ったのだ。

直ぐにドラムに移ったので、観客は全く気付いていなかった。

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一輝 おもちゃはスティック